2004年12月25日

イエス・キリストの言葉です(クリスマスによせて)

欧米ではクリスマスは家族と過ごすのが普通だとよく言われる。たしかにその通りかもしれないが、しかし、それは俗化して骨抜きにされたキリスト教であって、本来のイエスのラディカリズムは家族主義とは対極にある。

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイによる福音書 10章34節〜39節)

いろいろな解釈もありえるだろうが、私はこの言葉を「家族主義はエゴイズムの延長である」という視点から批判しているのだと思う。ナショナリズムも同じ理由で否定されるだろう。イエスは神の国しか認めてない。

イエスは到底普通の人には受け入れられない思想家だ。イエスについていこうとした青年はイエスに財産をすべて貧しい人に与えろと言われ、断念している。そのあとのイエスの言葉がまた激烈だ。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(マタイによる福音書 19章 23節〜24節)

家族主義と私有財産を肯定し、安定した収入を得ようとする一般人がこのようなラジカルな思想を持った男の誕生日を祝うのは矛盾している。矛盾しているからこそ、原始キリスト教がいかに変質し、俗化していったのか、いかに布教を成功させたのかというテーマはきっと面白いに違いない。(そういう本をいずれ読みたいと思っている)

タイトルの「イエス・キリストの言葉です」というのは、渋谷や新宿の街頭で宣伝カーから流れている例の音声から拝借した。あの宣伝カーの言葉はちょっと不気味な印象を与える。しかし、イエスはそういう思想家だ。この世はもうすぐ終わるとおどし、財産を捨てて私に従えと言っている。普通の人が聞けば不気味に思う。さまざまな新興宗教の事件を連想するだろう。しかし、そのラディカルさを抜きにしてイエスを考えることはできないのだ。


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「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。ペテロの手紙第一1:24,25 今日の朝電車の中で読んだ聖書箇所です
人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ【Withjjj(詩と韓国と真理とじゅんと)】at 2005年01月04日 17:17
この記事へのコメント
■投稿者:じゅん at 2005年01月04日 17:19
とても鋭い
意見ですね
聖書にも精通しているようですし
神は愛であり
審判者であり
許す方であり
裁く方であり、、
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