タイトル一覧

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2005年07月31日

書評:良寛に生きて死す/中野孝次 (後半)

『良寛に生きて死す』(著者:中野孝次 北島藤郷,出版社:考古堂書店)


中野氏がはじめて医師に食道ガンを宣告されたのが、2004年2月12日。当初、自宅にいて療養していたが、体の衰弱が激しく、家人にも負担がかかるという理由もあり、3月になって入院を決意し、放射線照射、抗がん剤投与の治療を受けることにした。

友人の上田茂氏にあてた『入院を知らせる手紙』にはこうある。「今度のことで、セネカの教えが一番役に立った。比較的平静に事態を受け入れられたのは、セネカによる。
(略)気持ちは元気で晴れやかだから、安心を乞う。」(2004年3月12日付)

つねに死を思えと書いていた中野氏らしく平静な心境であることに思想の強さを感じる。

しかし、次の『信頼する友へ』ではこうなる。「こないだは折角来てくれたのに邪険に扱って悪かった。入院直前でやはり気が立っていたんだろう。」(2004年3月21日付)

さすがの中野氏も死を前にして心はふさいでいたらしい。平静であったのは最初だけで肉体の衰弱は進む一方で、病院から戻れないだろうとの不安もあったろう。前の手紙の言葉が嘘であったと言うつもりはない。心は変化するのだ。

闘病生活1ヶ月。その経過を知らせる『闘病、そして小康』という手紙では「内視鏡検査では、すでにガンは消えている。」と報告している。その後、3ヶ月ほどで亡くなったことを知っている者としてはどういう意味なのだろうといぶかる。医師が嘘をついている可能性は高い。ガンがあちこちに転移していて、手の施しようもないのかもしれない。

しかし、中野氏は医者の言葉を信じていたらしく、次のように書いている。

「とにかく根治可能ということで、死から生還したような気がしている。十六日、君に会ったころには、必ず死ぬと覚悟していたからね。」(2004年4月17日付)

やはり生きたい思い、根治可能の言葉を信じたい気持ちが強かったのかもしれない。

本書に公開されている手紙はここまでだ。

五月に退院予定と思っていた氏は五月頃にはどういう心境になっていたのだろうか。残酷ではあるが、やはり中野氏の最後を知りたいと思う。この後、もう何も書いていないかもしれないが、もし記録があれば公開を望みたい。氏の幾つかの作品、とりわけセネカ関連の2冊から感銘を受けた者として、その思想と生活の最期。究極のところを知りたい気持ちは禁じがたい。
  

2005年07月30日

ガーデンプレイスの広場

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photo by Cozy

2002年4月。恵比寿のガーデンプレイス。

これもフィルム用コンパクトカメラのESPIO120SWでの撮影。広角側で撮ったので周辺光量落ちしている。

改めてこの広場を写真で見ると無理矢理に西洋風雰囲気を出そうとしていて変な感じがする。ガーデンプレイスの設計思想ってどういうものなのだろう。何を目指しているのか。海外からの観光客がほとんどいないところを見ると、やはり「見る価値なし」なのだろう。

銅像がレイザーラモン住谷に見える。ハードゲイ、フォー!
  

2005年07月29日

書評:良寛に生きて死す/中野孝次 (前半)

『良寛に生きて死す』(著者:中野孝次 北島藤郷,出版社:考古堂書店)


昨年の7月に食道がんで亡くられた中野孝次氏の遺作集。といっても最晩年に書かれたものはほんのわずかで、多くはそれまで雑誌などに書かれた良寛に関するエッセイだ。他に『新潟の文化を考えるフォーラム』の記録。こちらも良寛をテーマにしている。

正直言って、これらの作品はあまり面白くなかった。私が良寛をよく知らないこともあるが、内容的にも過去の著作に重複していて刺激がなかった。氏の良寛を見る視線には仏教的な切込みが不足しているので、思想的に浅い。短いエッセイということで単発的な軽い読み物風のものが多い。

このような半端なものを作ってしまったのは、無理やり一冊にまとめるためにあちこちから文章を集めた編集者の責任だろう。

本の最後に入院を知らせる手紙や闘病中の手紙が3通と遺言書が掲載されている。私は中野氏がどのように死を迎えたのかを知りたかったので、興味の焦点はこちらにある。

残念ながらと言うのもおかしいが、この遺言書は死の1年半ほど前にかかれたものなので実際に強く死を意識している時期のものではない。

遺書の最初に、葬式を密葬にと言っているが、有名人の死はマスコミに出るのは必定で、さほど意味のあることでもないような気がする。

子どものいない中野氏は財産をすべて夫人に残すとしていて、夫人の死後は慈善団体の中野基金に譲渡するとしている。奥さんに遺産を残すのは普通のことだが、良寛云々と言っている人にしては執着を残しているなあと思う。

著作権に関しては神奈川近代文学館に委ね、同館の特別運動資金とすることともあり、この点は偉いと言えそうだ。

遺言の最後のほうに「予を偲ぶ者あらば、予が著作を見よ」とあるが、これも見ようによっては激しい執着ではないだろうか。良寛的とはいえない。

遺言に比べるとガンが発見されてからの3通の手紙の方はリアル感がある。

長くなるので、後半に続く。

  

2005年07月26日

書評:重光・東郷とその時代/岡崎久彦

『重光・東郷とその時代』(著者:岡崎久彦,出版社:PHP研究所)


岡崎久彦の日本外交史シリーズの4冊目。

時代的には満洲事変から真珠湾、敗戦までを扱っている。しかし、軍部、政治家が記述の中心であり、外交の出る幕はあまりない。世論を挙げてのナショナリズムが戦争への一本道へと突き進んでいく。

一般に軍部の暴走ということを言うが、当時は世論が右傾化していた。そういう背景があってこその軍部の暴走なのだ。また軍部は上意下達となっていなかったのも注意すべき点だ。過激な思想を持ち、手柄を立てようとする若手が中国で勝手に戦闘をはじめたりしていた。現場の若手が下克上によって軍全体を引きずっていたのが実情のようだ。

強いリーダーシップが取れる政治家もいなかった。一方戦略のないバカな者は多くいて、松岡洋右(まつおかようすけ)のようなどうしようもない小人物が勝手に国際連盟を脱退したり、三国同盟を結んだりする。

太平洋戦争を「自存自衛のための戦争」と見る見方もあるようだが、基本的には「欲をかきすぎた」のではないだろうか。満州だけで満足していればさして問題はなかったのに、いくつもの戦争戦闘で勝ち続けていた日本はただひたすら国土を拡張し、植民地化をすすめようとしていた。

資本主義対資本主義の戦争として日米を戦争に導こうとする共産勢力の陰謀もけっして少なくない影響を与えている。日本が対米戦争を決意する原因となるハル・ノートを起案したのがソ連のスパイであったホワイト財務次官であったというのだ。この事実には驚いた。日本にはゾルゲがいたし、おそるべしソ連。

太平洋戦争で評価が難しいのが、「アジアの開放」だ。一方で帝国の拡大を目指す日本が同時に大東亜共栄圏を謳い、アジアの開放を実現しようとした。日本に有利な共栄圏ではあるが、宗主国の軍隊を追い払い、アジアの人々に教育をし、武器の使い方を教え、結果的にはアジアの開放を早めたことは間違いない。戦勝国からは否定的に見られがちなアジアの開放だが、明治以来の日本のテーマでもあり、他にも本を読んで追いかけたい。

本書は正直言って読みにくい。登場人物が多く、扱う事象が多く、それぞれに十分な説明がされているわけでもない。入門書とはとても言えない。しかし、読み通す覚悟があれば半端な本を何冊も読むよりもこれ一冊にぶち当たった方がいいのではないだろうか。条件付でお薦めする。

  

雨上がりのベンチと猫

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photo by Cozy

2002年4月。林試の森公園。

中古で購入したフィルム用コンパクトカメラのESPIO120SWで撮影。あんまり使わなかったので三宝カメラに売ってしまった。おそろくしく安かった。

しかし、この写真は気に入っている。
  

2005年07月21日

桜の花びらの絨毯

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photo by Cozy

PENTAX MZ-3、FA28-70mmF4AL。

2002年3月。新宿御苑でのお花見シリーズ。

桜の花が散った後は、花びらが敷き詰められてなかなかきれい。

じつはこのときのシリーズは28mmで撮影したものが多い。広角レンズの練習がテーマだったのだ。アングルや被写体の配置に広角レンズの特性を生かそうという意識が強く出ている。
  

2005年07月19日

マウス購入:LOGICOOL MX-510 パフォーマンスオプティカルマウス(ロジクール)

『LOGICOOL MX-510 パフォーマンスオプティカルマウス』(メーカー:ロジクール)価格: ¥4,250 (税込)


長いことボール式のマウスを使っていた。オプティカルにしようかなと思いつつ、日々がたち、マウスも壊れ、マウスの先を下げ気味にしないとポインタが上に移動しなくなった。それでもしつこくマウスパッドの下に封筒を入れて傾斜をつけて使い続けていた。貧乏くさい…。

さすがにそろそろ新しいのにしようと選んだのがロジクールのMX-510(青色)。価格ドットコムで人気があるし評価もよい。アマゾンの評価もまずまず。せっかくの買い替えなのでボタンがいっぱいついたいたほうがいいかとこれにした。

使ってみた感想。

なんといっても動きがスムーズ。滑らかで驚く。とにかく反応がいい。

サイズ的には私にはやや大きい。ひとまわり小さい方が手に馴染みそうだ。以前のマウスが小さかったのでよけいそう思うのかもしれない。形状的には親指の置く場所がへこんでいて、これは楽。

「戻る」「進む」が親指の位置にあるボタンに割り当ててあって、便利。このボタンのおかげで新マウスになってマウスの動きが減った。

上下のスクロール用ボタンもついている。下スクロールはちょこちょこ使うが、上スクロールの位置が遠くて使いにくい。このボタンを使わなければこのマウスの大きさでも問題ないのだが。

他にタスク切り替えボタンがあるが、必要だろうか? 積極的に使えばそれなりに便利になるかもしれない。

割り当ては変更できるので、いずれ使いやすい機能を割り当てるのがいいかもしれない。

ともあれスムースで楽なので、マウスとしては高く評価したい。しかし、ちょっと値段が高かったので減点して、星4つ(満点は5つ)。
  

2005年07月17日

書評:自分につよくなる サティ瞑想法/A・スマナサーラ

『自分につよくなる サティ瞑想法 シリーズ自分づくり”釈迦の瞑想法”3』(著者:A・スマナサーラ,出版社:国書刊行会)


スマナサーラ長老による「ヴィパッサーナ瞑想法」の解説本だ。

前半は方丈記のように物質的生活を批判するエッセイ風。これがなかなか面白い。私たちの虚妄の生活を暴いていくのは、スマナサーラ長老に特徴的な語りであるようだ。原始仏教に本来ある傾向を現代に生活にそくしてより印象的に強く語っている。

そして物質的生活から脱する方法としてサティの重要性が語られ、後半では具体的な瞑想の方法が説明されている。

せっかく何冊かの本を読んだので、なぜサティが必要かをまとめておこう。

人間の苦の原因には、むさぼり、怒り、無知がある。それによって心が汚れて人は苦しむ。しかし、実際には他にも心を汚す原因はあって、14の不善心所(こころを汚す原因)があるとされている。最初にあげた、むさぼり、怒り、無知はその中の代表的な3つである。

これらの心を汚す原因をなくして、心を清らかにすることで人は苦を脱することができる。具体的にはヴィパッサナー瞑想法の実践によってそれが可能なのだ。

心の汚れは余計なこと間違ったことを考えることによってもたらされる。そもそも人間の考え見解はほとんどが間違っている。偏見に過ぎないというのが、仏教の考えだ。人間は妄想、妄念、間違った見解のかたまりであり、無明(根本的な無知)の中にいると見ている。

反対に、余計なこと無駄なことを考えないことが心の汚れを取ることになり、苦を滅してくれることになる。

しかし、考えないと言っても、ぼーっとしていることがすすめられているのではない。今現実に起こっていることを「明確に区別して、詳しく観察すること=ヴィパッサナー」によって心の汚れが払い、心を清くすることができるのだ。「今ここ」に集中して生きることこそが、無駄なことを考えないことであり、知恵によって生きることにつながる。

そのヴィパッサナーの中でもサティが重要な役割を果たしている。

サティとは、「気づき」のことで、自分が今現在行なっている行為を意識すること、自覚することだ。歩いていて右足が動かしているなら「右」と頭の中で言い、左足を動かしているなら「左」と言う。立っているときなら、「立ってます」と言い、なにかが聞こえてきたら「音」と頭の中で言い、痛みがあれば「痛み」と言う。つまり言葉によってラベリングをすることで気づくことがサティである。

ヴィパッサナーには集中的に行なう実践として「歩く瞑想」「座る瞑想」「立つ瞑想」があり、その日常生活への応用としてサティを実践ことも可能だ。

サティについては『四念処経』というお経で述べられているそうだ。原始仏教のパーリ語からの翻訳シリーズいくつか出ているようなので、一度読んでみたい。しかし、翻訳の問題はなかなか複雑であるようだ。例えば本書ではこんな例が語られている。

パーリ語のアッパマーダ(Appamada)は通常「不放逸」と訳されているが、スマナサーラ長老によれば「はっきり物ごとを知っている状態、サティがあること」だそうだ。

「ですからお釈迦さまの遺言をパーリ語から直訳しますと『サティをもってがんばりなさい、自分に気づくことに一生精進して下さい』という意味になるのです。日本語では『放逸ならずして、おこたらず精進せよ』と訳されているとおもいますが、少しニュアンスが違います」

パーリ語からの翻訳だからと安心してもいられない。やはり独学の難しい世界であるようだ。

本書はコンパクトで読みやすく内容も面白い。シリーズの他のも読んでみる予定だ。
  

2005年07月15日

木陰からの花見

新宿御苑、2002-03-30-004.jpg
photo by Cozy

PENTAX MZ-3、FA28-70mmF4AL。

2002年3月。新宿御苑でのお花見。

桜の花の下はすでに場所取りされていたし、二人になりたかったので、こうなりました。

  

2005年07月12日

読書量が低下中

本がぜんぜん読めてない。

岡崎久彦の近代史シリーズの4冊目『重光・東郷とその時代』が数日間、停止している。

といっても、文字は読んでいる。仕事関連の実用書、技術書とかインターネットの記事とか…そのなのが多い。
あとは仏教書を少しずつ。

仏教に関心を持ちつつ、戦争の本を読むのがつらいのだろうか。これから泥沼の日中戦争に突入しようかというところ。読んでいて、やはり楽しくはない。

しばらくはこんな感じか。

ということで、書評をアップするペースが落ちますので、ご了承ください。
  

2005年07月10日

スピーカー「Creative Inspire 2.1 2500」を買った

『Creative Inspire 2.1 2500 [INSPIRE2500/J] (2.1chスピーカー)』(クリエイティブ・メディア)

価格: ¥4,680 (税込)
製品概要・仕様:
メーカー型番 : INSPIRE2500/J
スピーカー出力 : 6W
サブウーファー出力 : 17W
周波数帯域 : 40Hz〜20kHz
SN比 : 75db


PC用のスピーカーをアマゾンで購入した。

今までPC用としては1000円未満の超安物を使っていて、ちゃんと聴きたいときはヘッドフォンもしくはステレオセット(スピーカーはJBL)から音を出していた。しかし、PC脇の安物スピーカーでインターネットラジオを聴いたり、iPodの音を聞いたりすることも多くなったので、もっとましなスピーカーをと選んだのがこれ。安いわりにアマゾンでの評判がいい。BGM的な使い方なのでこのあたりのモデルでもよさそうに思えた。

おととい注文して昨日届いた。送料無料。これだけ素早いと買い物に行くのが馬鹿らしい。

さっそくつなげて聞いてみるとウーファーがきいていて、低音がよく出る。音質もこれで問題なし。どうせパソコンから雑音が出てるのだから、音がよくてもしょうがない。大きい音も出さないので音量もこれで十分だ。

この買い物は満足した。それにしてもPC用のスピーカーも性能がよくなったものだと驚く。

ひさびさの物欲満足。日本的水準から見て安上がり。
  

2005年07月09日

枝垂桜の前で

新宿御苑、枝垂桜、しだれざくら、2002-03-30-003.jpg
photo by Cozy

PENTAX MZ-3、FA28-70mmF4AL。

2002年3月。新宿御苑でのお花見。

枝垂桜(しだれざくら)の前での光景。

  

2005年07月06日

黒い日傘

新宿御苑、2002-03-30-001.jpg
photo by Cozy

PENTAX MZ-3、FA28-70mmF4AL。

2002年3月。新宿御苑でのお花見。

黒い日傘のおばあがふたり。

  

2005年07月03日

書評:上座仏教 悟りながら生きる/アルボムッレ・スマナサーラ、鈴木一生

『上座仏教 悟りながら生きる』(著者:アルボムッレ・スマナサーラ,鈴木一生,出版社:大法輪閣)


テーラワーダ仏教の本。スマナサーラ長老と鈴木一生の共著。

スマナサーラ長老にはスマナサーラ節とでも言うべき独特の話術、文体があるのだが、この本ではそれは抑えられている。鈴木氏が文体を整備し、統一しているらしく、文章的にやや個性のないものとなっているのが残念。私は日本テーラワーダ仏教協会のサイトに掲載されている『根本仏教講義』を少しずつ読んでいるところなので、そちらの方が面白く感じてしまう。なにしろそちらはスマナサーラ節が炸裂しているのだ。

内容的には一般向けの入門用なのですでにテーラワーダ仏教の本を読んだ人にはちょっと退屈な部分が多いかもしれない。もちろん最初に読むのならこれでもOK。

ただし、この本における転生について記述はまったく納得できるものではない。そもそもテーラワーダ仏教では自分で検証確認できないものを信じるなという釈尊の言葉を強調するのだが、転生はその検証確認などできるものではない。それをいくら理屈で語っても無理と言うもの。

たしかに『スッタ・ニパータ』や『ダンマパダ』のような原始仏典には輪廻転生に関する話題が出てくる。しかし、輪廻と解脱は当時のインド思想であり、釈尊もまたそこから自由ではなかった。そう私は理解している。

転生も含めて死後のことは「無記」でいいのではないだろうかと私は思う。『マールンキヤ小経』には釈尊が世界のあり方や霊魂や死後の生などの形而上学的な問題について判断を示さず沈黙を守ったことも書かれている。

テーラワーダ仏教では転生は死後のことではないという。こころのエネルギーが別の生へと転生するのだという。だから矛盾はしないというのだろうが、私から見れば屁理屈でしかない。経験的には「わからない」というしかない問題だ。やはり輪廻についての記述は眉に唾して読むのがいい。
  

2005年07月02日

書評:「悩み」に負けない!/河野良和

『「悩み」に負けない!』(著者:河野良和,出版社:PHP研究所)


タイトルから推測すると安っぽい人生論のように思えるが、じつは催眠の専門家による心理療法の本。

著者によると人間の感情は出来事に反応して生まれる一次感情とその感情に対して反応して生まれる二次感情からなっているという。一次感情が不快なものであると人はそれを嫌なものだと考え、その感情からなんとか逃げたいという二次感情を持ってしまう。じつはこれが人間の心を不安定にする大きな原因となっている。

たとえ一次感情が不快なものであっても、その感情を落ち着いた気持ちでじっと眺めてみるとさほど嫌な感情ではないことが多いし、さらに自分の感情を眺めていると、一次感情もおさまってきて、不快さはなくなる。

もし、感情を眺めてもやはり不快であるというのであれば観察をやめて、感情を分断することで不快さが増大するのを抑えることができる。

自分の心を観察するところからこの方法は「感情モニタリング」と呼ばれる。クリシュナムルティの受動的自己凝視に似ているが、こちらの方がより詳細に分析されているし、理論化もされているし、実践的だ。

自分の感情に振りまわされずに観察をするという点ではテーラワーダ仏教のヴィパッサナー瞑想も同様だ。ということは、ヴィパッサナー瞑想には感情モニタリングの効果も含まれていると考えてもいいだろう。

また、暗示という面から見た「言葉」や「思い」の重要さも指摘されている。その部分がテーラワーダ仏教の慈悲の瞑想などの理論的説明ともなっていて、テーラワーダ仏教や精神的指導者たちの教えを科学的に理解するためにも読んでみる価値はある。

(とっても、本書にクリシュナムルティやテーラワーダ仏教との関連が指摘されているわけではない。私が勝手に関連付けて読んでいるだけだ。)

感情モニタリングの本は以前にも読んだことがある。『触感刺激法で性格が変わる』(大和田二郎、ノンブック)という本だ。ちょっと不快なこと、気になることがあるときに試したことがあるが、じっさいに効果があった。そういう経験があったので、より詳しいことが書いてある本書を読んでみたのだ。

実際、本書の方が理論的な説明が多いので納得できるし、重要ポイントもよくわかる。「こころ」に興味がある人全般におすすめのしたい。
  

2005年07月01日

四谷の春

四谷、上智大学グラウンド、2002-03-28-003.jpg
photo by Cozy

PENTAX MZ-3、FA77mmF1.8Limited。

2002年3月。弁慶堀り遊歩道を桜を楽しみながら散歩したときの写真。
向こう見えるのは四谷の上智大学グラウンド。