タイトル一覧

書評:グラマン戦闘機―零戦を駆逐せよ/鈴木五郎 | 神事の後で | 書評:「裸のサル」の幸福論 /デズモンド・モリス | 皇居にある風景 | 書評:WindowsユーザーのためのDOS/コマンドプロンプト入門/米田聡 | 書評:きけわだつみのこえ―日本戦没学生の手記 | 氷川台氷川神社 | 書評:人生はゲームです/アルボムッレ・スナマサーラ | 広重を真似る |

2005年08月27日

書評:グラマン戦闘機―零戦を駆逐せよ/鈴木五郎

『グラマン戦闘機―零戦を駆逐せよ』(著者:鈴木五郎,出版社:光人社NF文庫)


朝日テレビの「朝まで生テレビ」で太平洋戦争の元本兵を集めて語らせる企画が2回続けてあった。その中で印象に残ったのが、戦争中期以降はアメリカに制空権を握られたせいで一方的に攻撃をされることがしばしばであったという話だった。

私が子どものころ零戦とそのライバル機に興味を持ったことがあった。そのときの少ない知識によれば、グラマンの戦闘機の性能が上がったことが零戦の敗因だったはずだ。つまりアメリカの航空機テクノロジーに負けた、と。

そのことをもう少し詳しく知りたいと、零戦対グラマンの本を読んでみた。

ゼロ戦(アメリカ人も当時ゼロセンと発音していたそうなので、こう表記しよう)がグラマンF4Fワイルドキャットと戦っていた初期はゼロ戦がかなり有利であったそうだ。小回りがよく利くゼロ戦は相手の後ろに回りこむドッグファイトでは無敵と言ってよく、とりわけベテランパイロットの操縦によれば圧倒的に強かったという。

ところが、アメリカ軍はゼロ戦の不時着機をほぼ完全な状態で入手した。アメリカはゼロ戦のテスト飛行を繰り返し、データを取り、どこに長所があり、弱点があるかを知った。それからはワイルドキャットでの戦い方を変えた。つねに2機が組んでゼロ戦に対抗し、一機の後ろをもう一機が守備することにした。つまりワイルドキャットの後ろにゼロセンが回り込めばその後ろにもう一機が入って攻撃すると言うことだ。

この戦術によりワイルドキャットは対ゼロ戦の戦績を好転することができた。もちろん戦闘機の数が多いから、この戦術も可能だったわけで、その背景にはアメリカの圧倒的な工業生産力があり、また空母の上により多くの機体を載せることができる折りたたみ式の翼の開発があった。

ゼロ戦のほぼ2倍の馬力を持つエンジンを搭載したF6Fヘルキャットが登場すると、対ゼロ戦の戦績はさらに向上する。戦術的にもスピードとパワーを生かしたヒット&アウェイ戦法(一撃離脱)でドッグファイトを回避することができた。グラマンヘルキャットはゼロ戦より高い位置から高速でゼロ戦にアタックして、そのまま高速で逃げていく。低速での旋回性能を生かした敵の後ろの回りこむ戦いには応じずに自分の有利な戦いだけをすれば負けるわけがない。

さらにテクノロジーの違いを挙げれば、機銃の性能がまるで違った。ゼロ戦の機銃は初速が遅くて弾道が定まらず命中率が低い。一方、アメリカの機銃は高速でよく当たった。

操縦士に対する考えも飛行機の設計の違いとしても現われている。ゼロ戦は防弾能力が低く、機体を簡単に通過した弾丸が操縦士に当たってしまうし、燃料に火をつけてしまう。一方、ヘルキャットは防弾能力が高く、操縦士を撃つのは困難だった。燃料タンクはゴムで包んであり、燃料漏れがしにくかった。そのためゼロ戦が撃ってもなかなか落ちなかったと言う。

ゼロ戦が時代遅れになり、勝てなくなったのなら、新しい戦闘機を作ればいいのだが、残念ながらその開発は遅く、名機と言われる紫電改が登場した頃はすでに日本は国力が消耗しており、アメリカの物量にただただ圧倒されたのだった。

ちなみに以上はすべて海軍の話であり、陸軍を中心にするとまた違う戦闘機の開発の話になるのだろう。

今の日本では兵器を通して戦争を見るというと不謹慎の謗りをまぬがれないが、戦争は戦闘行為があっての戦争なのだから、兵器を抜きにした戦争の話はかえって間が抜けているような気がする。いかに日本が負けたのかを戦闘機開発という視点から見てみるのはかえって新鮮ではないだろうか。
  

2005年08月25日

神事の後で

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photo by Cozy

2002年4月。明治神宮。

PENTAX MZ-3。FA35mmF2.0?

結婚式が終わり宮司さんたちが帰ってきたところ。行きは華々しい行進があるが、帰りはひっそりととしている。最後尾の人が持っている赤い大きな傘は新郎新婦にさしかけるもの。

  

2005年08月21日

書評:「裸のサル」の幸福論 /デズモンド・モリス

『「裸のサル」の幸福論』(著者:デズモンド・モリス,出版社:新潮社)


著者のデズモンド・モリスはイギリスの動物行動学者で、かつて『裸のサル』という著書で一世を風靡したことがある。この本の影響で、「パンツをはいたサル」とか「ケータイを持ったサル」とかのタイトルを真似て、柳の下のドジョウを狙う著書が跡を絶たない。

本書でモリス博士は、人間の幸福の源泉は複数あると認め、17個も並べている。「標的の幸福」「競争の幸福」「協力の幸福」「遺伝の幸福」「官能の幸福」「脳の幸福」「リズムの幸福」「痛みの幸福」「危険の幸福」「こだわりの幸福」「静寂の幸福」「献身の幸福」「消極的幸福」「化学的幸福」「ファンタジーの幸福」「可笑しさの幸福」「偶然の幸福」がそれだ。

これらの中でとりわけモリス博士が重視しているが「標的の幸福」であり、博士は狩猟を人間をサルから分かち、人間たらしめた本能と考えているらしい。そして現代生活についてこのように語る。「現代の我々の行動の多くは、原始時代の狩りの代償行為です。」「今日見られる不幸の大半は、人生の中でこうした『狩猟本能の充足』に類した活動が失われたところから生じていると信じています。」

なるほどね、と思う一方で、狩猟には男女ともに参加したのだろうかと言う疑問が残る。また、未開の人々の中には、植物採集を中心にしている人々もいるのだから、狩りを原始生活の基本と考えるのは一面的ではないかとの疑いもぬぐえない。

さらに言えば、狩猟がそんなに面白いものだったのだろうか、狩猟本能の充足はそれほど強いのだろうかとの疑問もある。ブッシュマンのような未開の人が獲物を延々と追いかけ続ける様子をドキュメンタリーで見たことがあるが、ちっとも楽しそうではなかった。ひたすら過酷な労働であるように見えた。

スポーツを狩猟の代償とする見方にも疑問がある。スポーツはむしろ戦いに本質があり、戦争の代償ではないのだろうか。モリス博士自身があげている「競争の幸福」にこそ分類されるべきだろう。

しかし、一番重要なものがどれかを決めることが本書の目的ではないので、それほど問題視する必要もないかもしれない。モリス博士の主張の第一は幸福の源泉は複数あるという事実にある。

「こうしたさまざまな形の幸福を検討することで私は、この最も価値のある心の状態を生み出す源泉は一つではなく、沢山あるのだということをお見せしようとしてきました。」

このことは朗報であるように見えるけれど、残念ながらモリス博士の結論は悲観的だ。「日々の仕事はあまりにも繰り返しが多く、想像力など必要としないので、幸福のためのいかなる可能性も提供してはくれません。(略)もし幸福の総量を増やしたいのならば、新しい仕事に就くか、幸福な瞬間は全て余暇活動の中に求めるしかありません。」

とはいえ、幸福の源泉は多い。「その他全ての幸福の源泉を精査してみることです。それまでには思いもつかなかった人生の領域に、幸福の豊かな鉱脈が眠っているかもしれません。」との言葉にはやはり真実はあるのではないだろうか。

もっとも、少欲知足をモットーとする仏教から見ると、このような人間は「心の刺激を求めるサル」ということになるのだが。
  

2005年08月20日

皇居にある風景

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photo by Cozy

2002年4月。皇居のお堀の横にあった芝生。

PENTAX MZ-3。FA77mmF1.8Limited。

皇居を散歩して八重桜を撮影していたら、強風が吹いてきた。見ると芝生には花びらが。

さすがに夏は撮影にでるのはつらい。秋から撮影を再開しようかな、と思っている。

  

2005年08月16日

書評:WindowsユーザーのためのDOS/コマンドプロンプト入門/米田聡

『WindowsユーザーのためのDOS/コマンドプロンプト入門―Windows98/Me/2000/XP対応』(著者:米田聡,出版社:ソフトバンクパブリッシング)


仕事の関係でWindows XPのコマンドプロンプトについて調べる必要があったので、関連本を何冊か見た。DOS時代からWindows95-98を経て現在のXPへとDOSの扱いがどう変化したのかをきちんと押さえた上で、わかりやすく書いてあり、自分にとってはこれが一番だった。ただし、昔からDOSを知っている人にとってわかりやすいのであって、まったくの初心者向けではないので、ご注意を。

以下は本書の紹介というよりコマンドプロンプトについて。

XPでは98みたいにDOSモードはないし、Windowsの起動前にDOSみたいなものが動いたりもしない。だからメニューはDOSプロンプトではなくコマンドプロンプトになっているのだろう。そういう意味では本質的にDOS的世界とは決別している。

しかし、かつてのDOSユーザーへの配慮も忘れていない。COMMANDというプログラムを実行させると16ビットDOS互換モードになる。どこまでDOSプログラムが動くかはわからないが、ないよりはあったほうがいいのは言うまでもない。

コマンドプロンプトになってCUIは使いやすくなった。CMD(コマンドプロンプトを実行すると動くプログラム)は便利だし、おもにネットワーク関係になるが使えるコマンド類も多い。XPのコマンドプロンプトは使う気になればけっこう使える。DOSというより、DOS的なCUIという位置づけなのかもしれない。

個人的にはほとんど使わないけど…。

読書量が激しく減っているのでこんなのもとりあげたりして。さみしいな。
  

2005年08月12日

書評:きけわだつみのこえ―日本戦没学生の手記

『きけわだつみのこえ―日本戦没学生の手記 ワイド版岩波文庫』(編集:日本戦没学生記念会 , わだつみ会,出版社:岩波書店)


通常の文庫版はこちら

太平洋戦争で亡くなった若い人たちの手記、日記、手紙などを集めた文集。大学を卒業後、もしくは在学中に召集されて戦地に赴いた若者が死を前にして何を考えていたかを知るよい資料だ。

しかし、あとがきにあるように、出版直後から編集方針に偏りがあるとの指摘がなされていたらしく、いささか反戦的な気分で彩られている。本当はもっと軍国主義的な記録があったのではないか。日本の正当性を主張するような手記が実際には書かれていたのではないか。そう思わせるほど、冷静な文章が多い。

自分を学究の徒としてとらえ、学問への意欲を語る文章が多いのも特徴だ。今の大学生がただ学歴のために大学へ行くのとは違って当時は選ばれた人たちだけが大学へ行っていたことが学生自身の意識にも深く刻まれていて、いかにも「戦没学生」的な雰囲気を保っている。

その反映だろう。文章の表現も硬い。観念的といってもいい。これは昔の学生の一般的傾向だろう。それと関連があるのだが、理想主義的でもある。自分の行き方を全うしたい、意義のある死を迎えたい、立派に死にたいという思いが随所に表現されている。裏を返せば、無意味な死を恐れる気持ちの現われだろう。無駄死にではないのだと思いたいのだ。それが様々な表現で語られている。その苦悶が痛々しい。

意外だったのは予想したよりも感動的ではないことだ。死を前にと言っても、実際に死ぬ直前の気持ちが書かれている手記は多くない。戦地にあっても本当に自分は死ぬのだろうかという不思議な感覚を語ったりして、むしろテレビドラマで描かれる戦場の方が劇的かもしれない。実際に死ぬ直前に手記を書くことなど滅多にないだろうから、当たり前と言えば当たり前だ。

とはいえ、特攻に行く前に書かれた手紙や戦犯として処刑される前に書かれた手記などはさすがに胸に迫るものがある。しかし、
その場合でも取り乱したところはない。そのときの真情を正直に語っているにしても、なかなかきちんとした文章で書かれていて、立派なものだと感心した。

どのような動機で読むか、どう評価するかはさておき、一度は読んでおきたい貴重な記録だ。
  

2005年08月10日

氷川台氷川神社

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photo by Cozy

2002年4月。練馬区氷川台の氷川神社。

PENTAX MZ-3。レンズはなんだったか。

氷川神社はあちこちにある。出雲系の神社であり、ここは須佐之男尊(すさのほのみこと)を祀っているが、速素盞男命(はやすさのおのみこと)を祀っているところもあるらしい。両者がどう違うのかよくわからない。

風雨にさらされると傷むのが早いとはいえ、提灯をビニールで囲むのはいかがなものか。
  

2005年08月07日

書評:人生はゲームです/アルボムッレ・スナマサーラ

『人生はゲームです―ブッダが教える幸せの設計図』(著者:アルボムッレ・スナマサーラ,出版社:大法輪閣)


テーラワーダ仏教のスマナサーラ長老の日本でのデビュー作(だと思う)。

本書は「こころ」とはどういうものかを説きながら仏教的な考え方、生き方を伝えている。ヴィパッサーナー瞑想の実践方法についてはあまり語られていない。基本的に実践よりも読み物として編集されているのが特徴だ。

タイトルの人生はゲームとはどういうことか。

人は死ぬ。しかし少しでも長生きしようとしている。つまり、人生は必ずゲームオーバーになるようにプログラムされたゲームであり、少しでも死ぬことを先に延ばしてみるゲームにすぎない。これがスマナサーラ長老の言うゲームの意味だ。いささか虚無的ではあるけれど、現実を冷静に見ればその通りだろう。

しかし、これを暗くとらえることはない。深刻にとらえるなとスマナサーラ長老は言う。楽しくゲームをすればいい、と。

「日本の現代社会にある問題のすべては、生きていることがすごく意味のあることだと思っていることにあります。(略)しかし、世の中にある知識、宗教、仕事、科学などはそのすべてが死ぬことを少しでも先に延ばすための仕掛けであって、ただのゲームなのです。ですから、仕事や子育て、家庭の問題、社会の問題などはただのゲームだと思って気楽にやればいのです。」

人間はいつも不安であり、「不安でない部分は何もないのですから、不安を消そうとしてもそれはまったく無意味で無駄な抵抗です。不安を消そうと思うと、生きることはさらに苦しくなりますから、ただその時々やるべきことを楽しく、しかも精一杯やることです。不安は決して消えませんので、すべてのことはゲームであって、成功しても失敗しても同じであると思えばいいのです。」

そして「クールこそ最高の心の状態である」という。「無常を知っている人は、どんなに幸福であってもクールなのです。また、不幸になったとしてもそのときもクールなのです。そのような人々は、死ぬときまで冷静で落ち着きがあり、ストレスもなくニコニコして生きていられます。」

日本人が「無常」と言うと、桜の花が散るのを見て悲しんだり、滅び行く平家に権力の果敢なさを思い、同情を寄せたりして情動的に反応することを指したりするが、本来はクールに物事を見ること。正しく実相を見て落ち着いていることこそ無常観なのだ。

またドゥッカ(Dukkha、苦)とは不満、苦しみ、不完全という三つの意味をもっていて、このドゥッカを認めることができれば、そこで真の幸福という概念が生まれるという。しかもこうも書いている。「もしもすべてのものは不完全であるという真理を素直に納得できるのであれば、ヴィパッサーナー修行をしなくてもいいのです。」

八正道は相互にかかわっていて、その1番目である「正見」が実現されれば、他も実現されるということらしい。しかし、たんに個人的な不満や恨み言ではなく、認識として正しく見ることはやはり難しいだろうと思う。自分なんかはちょっとしたことに一喜一憂してクールに物事を認識しつづけることはとてもできそうもない。

以上、心に残っていた部分を紹介した。

本書は日本仏教とは違うテーラワーダ仏教の入門書を探している人には最適な一冊だ。しかもあまり仏教くささがないので、人生論としてもおすすめだ。
  

2005年08月03日

広重を真似る

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photo by Cozy

2002年4月。目黒不動尊。フィルム用コンパクトカメラのESPIO120SW。

広重が浅草を描いた構図に似たようなのがある。大きな提灯を見てそれを思い出し、ちょっと真似てみた。

おっと、これだ。『浅草金竜山』。やはり雪の日に撮らなければ。

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歌川広重『浅草金竜山』