『初めての本 上座仏教―常識が一変する仏陀の教え』(著者:アルボムッレ・スナマサーラ,出版社:大法輪閣)
著者はスリランカ仏教界の長老(お坊さん)のひとり。1980年に来日し、駒澤大学大学院博士課程を修了し、現在は日本テーラワーダ仏教協会で活躍されている。
上座仏教とはスリランカ、タイ、ミャンマーに伝承された南伝仏教のことだ。パーリ語ではテーラワーダといい、「長老の教え」を意味する。成立年代の古い原始仏典を使い、釈尊がつくった修行方法の伝承も行なっているという点で、原始仏教、初期仏教と呼んでもいいようだ。
私は以前より仏教に関心があり、いろいろと仏教関連本は読んでいる。中でも岩波文庫から出ている中村元訳の原始仏典のシリーズのスッタ・ニパータとダンマパダはたまに読み返すこともあり、愛着を感じている。
となれば、上座仏教について書かれた本書には当然私のよく知っている内容が書かれているはずなのだが、あまりに違う内容なので驚いてしまった。「心はただ刺激を欲しがっている。刺激のためなら殺人もする」とか、「あるのはエゴだけ、自己愛だけ」とか、従来の仏教書とは違う強烈な言葉が並べられていた。
通常の仏教書なら、人間の苦しみである四苦八苦は自己への執着から生まれますなんて話が最初に来るものだ。だから自己への執着をなくせば人間は救われると続く。ところが本書はあまり仏教用語を使わずに人間の暗黒面をがんがん強調してくる。露悪的なまでに「こころ」の性質を暴いてくる。半端な人間理解では仏教の世界には入れませんよと言わんばかりだ。
阿含経典には実際にこういうことが書かれているのだろうか。それとも著者の解釈が多く入り込んでいるのだろうか。そのあたりのことがわかるように、丁寧な引用が欲しいところだが、いずれにせよ私はガーンとやられてしまった。
しかし、いくら苦について詳しい説明があったところで、それだけではどうしようもない。救済がなければ仏教ではない。本書は、仏教の救済部分としての修行についての説明もそれなりに納得できるものだった。
その修行についてちょっとだけふれておこう。
修行法のひとつにヴィパッサーナ瞑想法と言うのがある。ヴィッパサーナとは「あるがままに観察する」という意味だ。自分が今ここでなにをしているのかをあるがままに観察する。クリシュナムルティがよく言っている「あるがままのものをあるがままに見よ」と同じことかもしれない。その方法がきちんと体系化されていて、誰でも実践できるようになっている。
この実践により、妄想が消え、今ここに生きられるようになる。そして、種々のとらわれや、誤った自己意識から開放される。
ヴィパッサーナ瞑想については知っていたが、今まではあまりピンとこなかった。今回はインパクトが強かったせいもあって、俄然興味を持ってしまった。本書の説明が自分に合っていたということもあるだろうし、時期的にいいめぐりあわせだったこともあるようだ。
初めての本として、これがいいのかどうかはよくわからないが、仏教に関心のある人におすすめしたい。仏教書としては破格の面白さではないだろうか。