2005年06月22日

書評:さとりへの道 上座仏教の瞑想体験/鈴木一生

『さとりへの道 上座仏教の瞑想体験』(著者:鈴木一生,出版社:春秋社)


著者は日本テーラワーダ仏教協会の創設者。

著者は最初会社経営者でまったくの無宗教だったのが、ひょんなことから仏教に触れ、のめり込み、日本仏教の僧侶の資格を取るまでになる。しかし、日本人の上座仏教の比丘(男性出家信者)にであうことで上座仏教の関心を持ち、ミャンマーで修行をするようになる。

その修行の過程で邪魔になったのがそれまでの、法華経こそ最高の教え、大乗仏教はすばらしいという偏見だった。どうしてもそれまでの仏教知識に照らし合わせたり、大乗的に解釈したりしてしまうらしい。何も知らずに最初から上座仏教に入ればおそらくすっと理解できるものでもそれまで真実と思い込んでいた考えがかたくなに抵抗をしてしまう。

瞑想は精神統一をしなければならないものという思い込みもヴィパッサナー瞑想には邪魔になった。精神統一する瞑想はサマタ瞑想と呼ばれていて、ヴィパッサナー瞑想とは種類が違うので精神統一にこだわるとうまくいかない。

著者の場合、自分の体験知識が人並み以上であることがわざわいし、さらにミャンマーで通訳のいない状態での修行が指導者との意思の疎通を欠くことになってしまい、無駄な時間を費やしてしまったようだ。しかし、大乗仏教の知識を持ち、瞑想といえば禅のイメージを持っている日本人が陥りやすい失敗をしてくれているので日本仏教と上座仏教徒の違いが明確になるので、読者にとっては好都合だ。(私はもともと大乗仏教は好きではないが)

本書にはスマナサーラ長老もたびたび登場し、その謦咳に触れることができる。スマナサーラ長老はスリランカの僧なので、ミャンマーでは短い時間しか登場しないのだが、その存在感は大きく、著者を大いに助けている。この出会いと影響の大きさが現在の日本テーラワーダ仏教協会におけるスマナサーラ長老の役割の大きさとなっているのだろう。

タイトルに「さとり」とあるのは、著者が瞑想中に体験する「身体全体そのものが消えて、ただ認識しているこころだけが残っている」経験のことを指しているようだ。それが本当に悟りかどうかは私には判断できないが、少なくとも一度の悟りではどうしようもないようだ。この経験を再現しようと著者は瞑想をするが、かえってうまく瞑想ができなくなってしまう。十牛図などにあるように、一度、悟りを得てもそれを忘れる必要があるらしい。

修行の世界と並んで興味深いのは、ミャンマーの人々にとっての仏教の存在だ。日本とはまったく違い、人々の積極的な献身で僧の生活が成り立っている。布施がごく自然に生活の中にあるようだ。葬式仏教としてしか存在できない日本仏教の悲しいあり方について考えさせられる。

また日本人の感覚からすると劣悪な修行環境も印象的だった。不殺生のためにさまざまな生物が徘徊し、板の上に汚れたござ一枚で寝るような無一物に近い修行生活。これに耐えられるだけでもすごいことだと思う。

本場の修行について知りたい人にはおすすめの一冊。


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