2005年07月17日

書評:自分につよくなる サティ瞑想法/A・スマナサーラ

『自分につよくなる サティ瞑想法 シリーズ自分づくり”釈迦の瞑想法”3』(著者:A・スマナサーラ,出版社:国書刊行会)


スマナサーラ長老による「ヴィパッサーナ瞑想法」の解説本だ。

前半は方丈記のように物質的生活を批判するエッセイ風。これがなかなか面白い。私たちの虚妄の生活を暴いていくのは、スマナサーラ長老に特徴的な語りであるようだ。原始仏教に本来ある傾向を現代に生活にそくしてより印象的に強く語っている。

そして物質的生活から脱する方法としてサティの重要性が語られ、後半では具体的な瞑想の方法が説明されている。

せっかく何冊かの本を読んだので、なぜサティが必要かをまとめておこう。

人間の苦の原因には、むさぼり、怒り、無知がある。それによって心が汚れて人は苦しむ。しかし、実際には他にも心を汚す原因はあって、14の不善心所(こころを汚す原因)があるとされている。最初にあげた、むさぼり、怒り、無知はその中の代表的な3つである。

これらの心を汚す原因をなくして、心を清らかにすることで人は苦を脱することができる。具体的にはヴィパッサナー瞑想法の実践によってそれが可能なのだ。

心の汚れは余計なこと間違ったことを考えることによってもたらされる。そもそも人間の考え見解はほとんどが間違っている。偏見に過ぎないというのが、仏教の考えだ。人間は妄想、妄念、間違った見解のかたまりであり、無明(根本的な無知)の中にいると見ている。

反対に、余計なこと無駄なことを考えないことが心の汚れを取ることになり、苦を滅してくれることになる。

しかし、考えないと言っても、ぼーっとしていることがすすめられているのではない。今現実に起こっていることを「明確に区別して、詳しく観察すること=ヴィパッサナー」によって心の汚れが払い、心を清くすることができるのだ。「今ここ」に集中して生きることこそが、無駄なことを考えないことであり、知恵によって生きることにつながる。

そのヴィパッサナーの中でもサティが重要な役割を果たしている。

サティとは、「気づき」のことで、自分が今現在行なっている行為を意識すること、自覚することだ。歩いていて右足が動かしているなら「右」と頭の中で言い、左足を動かしているなら「左」と言う。立っているときなら、「立ってます」と言い、なにかが聞こえてきたら「音」と頭の中で言い、痛みがあれば「痛み」と言う。つまり言葉によってラベリングをすることで気づくことがサティである。

ヴィパッサナーには集中的に行なう実践として「歩く瞑想」「座る瞑想」「立つ瞑想」があり、その日常生活への応用としてサティを実践ことも可能だ。

サティについては『四念処経』というお経で述べられているそうだ。原始仏教のパーリ語からの翻訳シリーズいくつか出ているようなので、一度読んでみたい。しかし、翻訳の問題はなかなか複雑であるようだ。例えば本書ではこんな例が語られている。

パーリ語のアッパマーダ(Appamada)は通常「不放逸」と訳されているが、スマナサーラ長老によれば「はっきり物ごとを知っている状態、サティがあること」だそうだ。

「ですからお釈迦さまの遺言をパーリ語から直訳しますと『サティをもってがんばりなさい、自分に気づくことに一生精進して下さい』という意味になるのです。日本語では『放逸ならずして、おこたらず精進せよ』と訳されているとおもいますが、少しニュアンスが違います」

パーリ語からの翻訳だからと安心してもいられない。やはり独学の難しい世界であるようだ。

本書はコンパクトで読みやすく内容も面白い。シリーズの他のも読んでみる予定だ。


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