2004年10月29日

詩(ポエジー)には一定の棲家などない

芸術や科学の分野で、未踏の処女地に新たな発見を求めて進もうとするこの情熱(…)この精神的な磁気を、私は愛した。私もシュルレアリストにならって、詩(ポエジー)には一定の棲家などないこと、ポエジーは必ずしも詩篇の中にあるわけではないこと、街頭でも、壁の上でも、どこででも、ポエジーに出会うことはできるのだということを私は認めた。(ブラッサイ『ピカソとの対話』飯島・大岡氏訳)

ブラッサイは写真による落書きの収集を30年以上にわたって続け、『落書き』という写真集にまとめた。手帳には落書きのあった場所や日時などが記録され、同じ落書き何年もしてから訪れることもあった。その執念にも驚くが、ここではポエジーへのこだわりに注目したい。

「パリ写真」においては写真家と詩人や文学者が組んで詩集を出すことがしばしば見られた。が、ブラッサイは自分でも詩を書く人であった。もともと美術を学んでいたことも考えると、ブラッサイはいろいろな表現に関心があったようだ。そして彼には表現がポエジーを表していることが重要だった。

では、ポエジーとは何か。ポエジーは「詩」であるけれど、日本語の語感では「詩情」と言ったほうがいいかもしれない。そう言い換えたとしてもその実態が理解できるわけではないが。

そこでポエジーに詳しい人の意見を拾ってみると、

  ポエジーとは瞬間化された形而上学である。‥‥ガストン・バシュラール

ますますわからない。わからないけど、「おお、かっこいい」と思ってしまった。


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