タイトル一覧

ストリートスナップとセクハラ | 広角は難しいか? その2 | 詩(ポエジー)には一定の棲家などない | 広角レンズは難しいか? | 人間の目に近いレンズは? | レンズ特性と写真の内容 | ウイリー・ロニスの言葉 その3 | ウイリー・ロニスの言葉 その2 |

2006年02月20日

ストリートスナップとセクハラ

ストリートスナップがやりにくくなった。街でうろうろしているだけでも、不審者と間違われる。日本人の権利意識が強まったのか、それとも自意識が過剰気味になったのか「なんで俺を撮ったんだ」と文句を言われることもあるようだ。

ストリートスナップが不審がられたり不快がられるのは、煎じ詰めれば、撮られている側がどう思うかによる。そして、撮られている側がどう思うかは一に誰が撮っているかにかかっている。好意が持てるようなそれなりの人が撮っていると思えば、あまり文句を言う気にはならない。

つまり、セクハラと同じ。

こぎれいな身なりの紳士が二眼レフを覗き込み芸術家のオーラを出しながら撮っているのであれば、あるいは紅顔の美青年が写真学生の青臭さと真摯さでスナップしているのであれば、あまり不審がられることもない。

2ちゃんねるにこんな書き込みがあった。

「地下鉄車内でモデルみたいな白人のお姉さんがハッセルに脚つけて乗客撮ってたよ。
もちろん許可なし。誰も文句はつけなかったけどソレが日本人の汚いオッサンだったらどうだろうかと思う。」

私はそのお姉さんを撮りたい。言うまでもないが、撮られたら撮り返すというのがスナッパーの意地、なんて理由からではない。チャンスに撮るのが習性だからだ。(いや、きっと撮らないだろうな。想像したら、なんか恥ずかしい)
  

2004年11月23日

広角は難しいか? その2

「広角は難しいか?」を書いたとき、大事なことを書き忘れていたので、追加する。

広角レンズが難しい理由の3番目は、画角が広いので余計なものがたくさん写ってしまうことだ。

写る角度が広いから広角レンズというわけで、とにかく広い範囲が写ってしまう。写真を撮っているときは自分が目で見ている範囲が写っているのだから問題はないように見える。ところができあがった写真を見ると、何を撮りたかったのがわからないようなゴチャゴチャした写真になっている。自分が注視していた以外の部分も写真の中に写りこんでいるからだ。

写真を撮るとき、写真家の脳の中ではある部分がクローズアップされているのかもしれない。しかしカメラはそんなことは知らないから、光が入ってくるままに記録する。そして編集することもなくそのまま出力する。

写真を撮った本人はどの部分に感銘を受けたのかわかっているから、それほどひどくは感じないが、他人が見るとどこが写真のヘソなのかわからない曖昧な印象を受ける。主題が見えないといってもいい。

私が中望遠が撮りやすいと感じるのも、パースペクティブ(遠近感)の問題だけではなく、中望遠は画角が狭くて主題がはっきりしやすいということも関係がありそうだ。

  

2004年10月29日

詩(ポエジー)には一定の棲家などない

芸術や科学の分野で、未踏の処女地に新たな発見を求めて進もうとするこの情熱(…)この精神的な磁気を、私は愛した。私もシュルレアリストにならって、詩(ポエジー)には一定の棲家などないこと、ポエジーは必ずしも詩篇の中にあるわけではないこと、街頭でも、壁の上でも、どこででも、ポエジーに出会うことはできるのだということを私は認めた。(ブラッサイ『ピカソとの対話』飯島・大岡氏訳)

ブラッサイは写真による落書きの収集を30年以上にわたって続け、『落書き』という写真集にまとめた。手帳には落書きのあった場所や日時などが記録され、同じ落書き何年もしてから訪れることもあった。その執念にも驚くが、ここではポエジーへのこだわりに注目したい。

「パリ写真」においては写真家と詩人や文学者が組んで詩集を出すことがしばしば見られた。が、ブラッサイは自分でも詩を書く人であった。もともと美術を学んでいたことも考えると、ブラッサイはいろいろな表現に関心があったようだ。そして彼には表現がポエジーを表していることが重要だった。

では、ポエジーとは何か。ポエジーは「詩」であるけれど、日本語の語感では「詩情」と言ったほうがいいかもしれない。そう言い換えたとしてもその実態が理解できるわけではないが。

そこでポエジーに詳しい人の意見を拾ってみると、

  ポエジーとは瞬間化された形而上学である。‥‥ガストン・バシュラール

ますますわからない。わからないけど、「おお、かっこいい」と思ってしまった。
  

2004年10月10日

広角レンズは難しいか?

広角レンズは初心者には難しいとよく言われる。その理由はおもにふたつあるようだ。

ひとつは、被写体が肉眼よりもずっと遠くに見えるので、なんとも腰の引けた迫力のない写真になってしまうというもの。いつもと同じ距離感で被写体に向かっているとどうしてもそうなってしまう。そこで指導者は「一歩前へ出ろ」と男子便所に書いてあるような忠告をすることになる。

でも、これは世界のとらえ方の問題だから、遠くていい場合もある。アラーキーの写真に広角で「遠いなあ」ってのがけっこうある。そういう距離感がまた心地よかったりする。これはこれで主張なのだ。

ふたつめは、パースペクティブがやたらと効いた(つまり遠近感が強調された)いわゆる「広角くさい」写真を量産してしまうというもの。写真雑誌の広角レンズの使い方などを鵜呑みにするとやってしまいがちだ。

近くの被写体と遠くの被写体を同時に写しこみさえすれば(高いビルを撮っても同じ)成立するので誰でもできる。しかし、広角レンズを持っていないとできないので、より画角の広いレンズを買って差別化をしたくなる。で、ついつい「広角くさい」写真を狙うことになる。この場合、広角くささは購買力自慢のくささでもある。

ということで、ヘタレではない主張ある距離感で広角くささを感じさせない写真が撮れたら、広角レンズを使いこなしたと言えるのじゃないだろうか?

でも私は広角は苦手。そういう写真が撮れたらいいなあ、というお話。
  

2004年10月07日

人間の目に近いレンズは?

人間の目に近いレンズの焦点距離は何ミリかがたまに話題になる。

135判(35mm)カメラを前提にすると、50ミリが標準なのは人間の目に近いからだと言う人がいるが、これ間違いだろう。なぜ50ミリが標準になったかはともかくとして、人間の目にはそれほどは近くない。

まず遠近感で言うと80ミリから90ミリがもっとも自然だ。ブツ撮りやポートレートで被写体の形がゆがまないで(パースによるゆがみがない)自然に撮れるのがこのあたりの焦点距離だ。形がゆがまないというのは、肉眼と比べてゆがまないという意味だ。だから、80〜90ミリのレンズと人間の目の遠近感はほぼ同じと言える。(実際に何ミリに相当するかを誰か知っていたら教えていただきたい)

これに対する反論は「人間の目はそんなに狭い範囲しか見ていないのか、もっと広くが見えているぞ」というもの。ここから35ミリだ、28ミリがもっとも近い画角だという意見が出てくる。

しかし、人間の視野はもっと広いという主張は正しいが、広角レンズでは人間の目とは遠近感がまるで違う。パースペクティブを無視して判断するわけにはいかない。

フィルムと網膜の違いを考慮に入れていないのでこんな議論になるのだろう。
フィルムは小さな四角形だが、網膜は広い範囲にわたる球面状の膜だ。視野が広くて当然なのだ。構造が違うのだからカメラに当てはまるわけがない。

要するに、中望遠の遠近感で広い視野が見えているのが人間の目なのだ。もちろんそんなレンズは存在しない。もし人間の視覚を再現しようとしたら中望遠で何枚も撮った写真を合成する方法が考えられる。あるいは特殊なカメラを作成するとか…。

さて、その上で自分はどんなレンズを使いたいか? これがまた悩ましい問題だ。
  

2004年10月05日

レンズ特性と写真の内容

ライカ新時代―ぼくたちのM型ライカ』というムック本に赤城耕一さんのレンズ評が載っている。ここで気になる言葉を見つけた。

「私自身はレンズ描写についてこうしてもっともらしく薀蓄を語りつつも、その描写特性が写真の内容に与える影響というのは基本的にほとんど皆無であると考えている。」

ここで赤城さんはレンズの描写に違いがないといっているわけではない。「内容に与える影響はほとんどない」と言っているのだ。

そもそも写真の内容とは何かと論じはじめるときりがないのだが、過去の名作などをふと思い浮かべて見ると、たしかにレンズのよさとか描写特性などどうでもよいケースがほとんどであることに気がつく。

今、写真美術館に至る壁面には植田正治の妻のいる砂漠の風景、キャパのノルマンディの写真、ドアノーの市役所前のキスが巨大サイズで飾られているが、このどれもがレンズの個性などどうでもいい種類の作品だ。日本の写真史上の最高傑作だろう荒木経惟の「冬の旅」なんかはコニカのコンパクトカメラ、ビックミニで撮られていたはずだ。

力のある作品ほどレンズの特性には頼っていない。内容勝負だ。

赤城さんの言わんとすることは別にあるのかもしれないが、こんなことを思った。思ったけれど、レンズの性能とか気になっちゃうのが凡人のサガである。

「センチメンタルな旅・冬の旅」…アラーキーこと荒木経惟の最高傑作にして、日本写真史上の最高傑作。センチメンタルな旅はニコン、冬の旅はコニカ・ビックミニFで撮られたらしい。

  

2004年09月26日

ウイリー・ロニスの言葉 その3

85c3e57e.jpeg「視線と呼ばれるものは生まれつき持っているもので、より良く動くカメラで撮れば直ぐに明らかにされる。
写真家は最初のイメージの中に、自身のパーソナリティが全て含まれていることを晩年になって気づく。妙なことだが上達していないことを再認識するのだ。」ウイリー・ロニス

photo by Willy Ronis

ここで言われている「視線」とは写真のセンスくらいの意味だろう。それが生まれつきかどうかはともかく、私もやはり自分の写真が上達していないことを強く感じる。

写真をはじめてそれほど年数がたったわけではないが、いろいろと知識も得たし、技術も習得した。しかし、初心者の頃と比べていい写真が撮れるようになったとは言えない。多少、歩留まりがよくなった程度だろう。センスに進歩はないということだろうか。

ロニスをしてそう言わしめるのだから、落胆よりも慰められる言葉だ‥と言ってのいいのだろうか?
  

2004年09月25日

ウイリー・ロニスの言葉 その2

6d6cb2a7.jpeg昨日のロニスの言葉の続き。

「写真家はフォルムを気にするが、黄金分割の定式でファインダーを見るわけではない。
直感によって構成し、感覚によって導く。
提示されたイメージは心で抑揚づけられた幾何学である。」ウイリー・ロニス


photo by Willy Ronis

黄金分割は絵画だけではなく、写真にも影響を与えた。絵画出身のブレッソンの写真は黄金分割による構図が多いのではないだろうか。しかし、それだけでは安定しすぎて、窮屈な印象を与える。黄金分割を知りながら、そこから自由になる。それができたら黄金分割のことは忘れてもかまわない。などと十牛図のようなことを言ってみる。

ご覧のように今日からblogを導入した。しばらく実験を続けて問題がなければモノローグだけはblogということにするつもりだ。

なお、過去のモノローグの記事はこちらを参照。

何必館の図録は市販されていないので写真集を入手されてはいかが? Willy Ronis: C'est La Vie